大阪地方裁判所 昭和50年(わ)768号 判決 1979年5月07日
主文
被告人は無罪
理由
一本件公訴事実の要旨は、被告人は昭和四九年六月二四日ころから同五〇年三月四日ころまでの間、前後五二回にわたり、別紙一覧表記載の日時場所において、同表記載の絵画、陶器等、計七三点(価格合計二三、〇二五、九六〇円相当)を窃取したというものである。被告人はこれが自己の犯行であることを当公判廷で自認する外、取調べた証拠により、被告人が右の窃取行為をなしたことを明らかに認めることができる。
二弁護人は、右犯行が被告人の当時罹患していた躁うつ病にもとづく著しい意識障害下になされたもので、この意識障害は心神喪失の程度に達していたものといえるから被告人は無罪であると主張するので、以下検討を加える。
<証拠>を総合するとつぎの事実を認めることができる。
1 被告人の生活史
被告人は昭和二年大分市で出生した。男二人、女五人の七人きようだい中の第六子で、父は陸軍士官学校出身の職業軍人であつた。兄は旧制第一高等学校、東京大学工学部を卒業して現在セメント会社の役員をしており、姉妹らも新聞社社長、医師等、有能な人物と結婚している。被告人は旧制県立大分中学、第五高等学校を経て昭和二六年に東京大学経済学部を卒業したが、学業成績は小学校から高等学校を通じて常に首席を争う程優秀であり、出身小学校の校歌作詩の募集に応募して当選する等文学的才能をも発揮した。昭和二六年四月被告人は住友系のN板硝子株式会社(本社大阪市東区道修町)に入社、東京支店に営業課員として配属された。昭和二八年四月同社舞鶴工場に転勤し同所で約一〇年間勤務した後、昭和三八年四月に大阪本社に転勤した。舞鶴工場に勤務中妻花子と見合結婚をし、その間に二子が出生している。昭和三九年二月右会社の子会社である三重県津市所在のS株式会社に企画室長として出向勤務し、営業不振の同社再建に成功、同四五年二月大阪本社に社長室第二部長補佐として栄転復帰した。ところが被告人は、同四六年五月東京支社に営業部長補佐として転出させられ、同四八年二月には前記舞鶴工場に総務課長として転勤を命ぜられた。このとき被告人は前途を悲観し、後記のガス自殺を企てたが、果さなかつた。舞鶴工場では躁うつ病の影響もあつて、工場次長との間が兎角円滑を欠き、失意のうちに欠勤勝ちの日を送つたが、たまりかねて本社人事部長に配置転換を懇請したのが通り、昭和四九年二月人事部長補佐の肩書で大阪本社に復帰した。しかし被告人は、躁うつ病罹患の事実を知つていた会社側の配慮で、安全衛生管理の研究といつた名目的な仕事を与えられたため、暇をもてあまし、デパートやギヤラリーの美術品展示場等を見て歩くうち、躁うつ病に基因する病的な所有欲にとりつかれて本件一連の犯行を惹起するに至つたのである。右により逮捕、勾留された被告人は、昭和三〇年三月二七日N板硝子株式会社から懲戒解雇され、同年四月二日保釈されたが、捜査が一段落した後は、妻の実家である別府市野口元町八の一〇の開業医甲野一郎方に妻子ともども身を寄せている。
2 被告人の性格等
秋元、清田両鑑定人の各種検査の結果によると、種類によつてアンバランスがあるものの、知能についてはほぼ通常域にあつて問題はなく、現実吟味の能力も障害されていないことが認められる。しかし感情面では情緒の統御が不良、衝動的行動を呈し勝ちで、現実回避が耽美的方向への逃避として起こる傾向があり、心気的、神経質で、ものごと特に金銭に執着する点も無視できないことが報告されている。このほか被告人は、自己の設定した目標の実現については全精力を集中して成果をあげる能力を有しているが、大きな組織内で細分化された役割を分担することについては、甚だしく熱意を欠き、興味を示さないことが観取される。後記の躁うつ病はいわゆる内因性精神病で、その発生のメカニズムは未だ解明されないものの、右の性格特徴が躁うつ病と無縁ではなく、その発現、増悪に何らかの関係を有しているものと推測されるのである。
3 被告人の精神障害と病歴
(1) 被告人は、心身の発育は正常であり、胃潰瘍、扁桃腺切除等の外科手術を受け、昭和四八年秋には急性肝炎に罹患したが、そのほかに著患を知らない。熱性疾患や頭部外傷も無関係である。もつとも躁うつ病の萌芽状態ともいえる気分の高揚と沈滞が既に学生時代に自覚されていたが、この現象はそれ以上発展することもなく、精神状態は安定していた。
(2) 被告人は昭和三九年二月前記のとおり三重県津市所在の子会社Sに出向し、旅館住いの不規則な生活を続けるうち、急に厭世的な気分になり、何を聞いても頭に入らない等情報処理能力の喪失を自覚したので、思い余つて三重医大の精神科で診療を受け、初めてうつ病との診断を受けた。そのとき抗うつ剤の投与を受けて寛解に向う気分を体験し、以後抗うつ剤への依存傾向を速めていつたのである。
(3) 昭和四五年二月被告人は前記のとおり大阪本社の部長補佐に栄転したが、職務の内容は被告人にとつて不得手な、組織内での部分的な仕事であつた。気分も沈み勝ちとなつたので、住友病院心療内科の市丸精一医師に外来患者として診療を乞うたが、沈滞した気分は好転していない。
(4) 昭和四六年五月被告人は東京支社に転勤した。本社から出されたことで、この異動は被告人にとつて相当のシヨツクであつたが、気を取り直して子会社に作らせる新製品開発に従事して成功した。そのころは気分も上昇傾向にあつたが、新製品開発が一段落した同年暮頃、気分が滅入るのを感じたため、昭和四七年二月願い出て東京支社の営業部長付きに職務内容を変更してもらつた。その当座は気分も上昇傾向にあり、営業部員を引率して二泊三日の旅行をする等、比較的好調な日日が続いたが、同年七月ころ部下のミスを上司に指摘されたことがきつかけとなつて急にうつ気分が優勢となり、仕事に対する意欲が失われることを感じた。このことは上司にも気付かれたようである。ついで昭和四八年二月の定期異動の際、被告人は前記のとおり舞鶴工場総務課長への転任を命ぜられた。エリートコースからの決定的な脱落だと直観した被告人は、前途を悲観し、台所のガス栓にガス管を接続して居間に持ち込み、ガスを噴出させて自殺をはかつたが、折から外出先から帰宅した妻に発見されて未遂に終つている。その翌日の二月一三日被告人は虎の門病院の栗原医師の指示で、同病院轟分院に入院した。経過は順調で、抑うつ気分は軽快し、同年三月一三日寛解退院した。そのころ気分は上昇傾向を辿り、会社にも顔を出したりしたが、うつ状態の基調は変つていない。
(5) 舞鶴工場に赴任した被告人は、前記のとおり工場次長との人間関係が円滑を欠き、次第に気分が滅入るのを感じて欠勤することも度度であつた。職務に忠実な工場次長が旧陸軍の古参兵のように映り、居た堪らない気持でうつ状態のまま苦悩の毎日を送つた。舞鶴では国立舞鶴病院神経科の大谷医師の診療を受けたが、全体としては軽快方向に進まず、勤務成績は全く不良であつた。
4 本件犯行とその前後の状況
被告人は前記のとおり昭和四九年二月大阪本社に復帰したが、その当座は解放感を満喫した。気分が高揚して博多帯や室内装飾品など差し当たり必要でない高価な品物を次次に買い込んだりした。しかしこの傾向は間もなく消滅し、精神的沈滞がこれに替つた。ついで極端な吝嗇傾向(貧困妄想)が現われ、近所の代金後払いの食堂で一八〇円のラーメン代を払わずに出てきたことも数回あつたという。さらに同年五月ころ、被告人は大阪駅付近の書店で一、〇〇〇円以下の本二冊を万引して警備員に発見された。そのときは説諭のうえ、その本を買い取らされて解放されたが、このことは被告人にほとんど感銘を与えていない。そしてその直後ころから、被告人は再び金使いが荒くなり、会社から約一〇〇〇万円の融資を受けて池田市近郊の土地を買つたりした。妻は土地の購入に反対であつたが、被告人は強引に押し切つたのである。しかし当時被告人は、何をしても気分に張りがなく、空虚感が支配的であつた。
本件犯行は昭和四九年六月二四日ころに初発している。その直前ころ被告人はブルガリヤ作家の展示会で、月給の半額以上にあたる一五万円を投じて絵一枚を買つたが、これが病みつきとなつて絵画に凝るようになり、美術名典という書物などを買い込んで、画家や作品の評価の研究を始めていた。そして帰阪後診療のために通院中の住友病院の廊下に掛けられていた小村和作の製作にかかる水彩画が欲しくてたまらなくなり、大きな風呂敷を用意して前記二四日ころ同病院に赴き、診察を待つていた十余名の外来患者の見ている前で、その絵の額を壁から取り外し、右の風呂敷に包んで持ち出したのである。ついで、その三週間後の同年七月一五日ころ、被告人は氏名を名乗つて出入りしているカワスミ画廊から油絵一枚を隙をみて盗み出し、以後別紙犯罪一覧表記載の順序で美術品の窃取を敢行した。その期間は前後九カ月に亘つており、数量別の一覧表にするとつぎのとおりである。
昭和四九年 六月 一件
七月 一件
八月 三件
九月 九件
一〇月 一四件
一一月 四件
一二月 六件
昭和五〇年 一月 二件
二月 七件
三月 五件
これによれば、被告人の右犯行はグラフ化すると昭和四九年一〇月の一四件を頂点として毎月発生し、急速に増大してなだらかに減少するほぼ規則的な線を画いていることが認められる。もつとも昭和五〇年一月の件数が少ないが、これは昭和五〇年一月六日に阪神百貨店の浮世絵展で浮世絵を窃取したことが大大的に新聞報道され、恐くなつて右浮世絵を通行人を装つて曾根崎警察署まで返却した後、暫く窃盗を中止していたことによるものである。翌二月には窃取件数は七件になつており、これを考慮に入れると、発生件数はほぼ規則的なものといえるのであり、被告人の本件犯行には一定の法則性があることは明らかである。恐らくこの法則性は躁うつ病の病的なものの昂りと減衰に一致すると思われるがこの外、被告人の本件犯行にはつぎの諸特徴が指摘されよう。
①初回の住友病院での窃取行為は前記のとおり公衆の面前で行なわれたものであり、その約二か月後に当然厳重な警戒が予想される同じ住友病院で、人のいないのをみすましたうえとはいえ、同じように絵画を盗み出している。②自己が勤務していて恩義がある筈の(もし発覚すれば恥辱このうえもない)N板硝子株式会社から六回にわたつて貴重な美術品を盗み出し、しかもその一部を共用ロツカーに保管したり、また一部の品を近くの美術品商に持ち込んで売却依頼している。③別表五は会議参加のために赴いた先の住友クラブで三点の絵画を盗んだ案件であるが、被告人はその盗品を持つたまま会議に参加しており発覚することなど殆ど念頭にない。④昭和四九年九月以降は絵画から陶器類に窃取の対象を移しているが、その内容は玉石混淆で、興味が美術品の獲得よりも窃取そのものに移行した観があり、関心の質の低下を窺わせる。⑤別表五二は、被告人が、窃取した同表五一のフランス製花瓶の価値を尋ねに行つた先の阪急百貨店で、この価値を教えてくれた店員の隙をみて陳列中の花瓶を窃取した案件であつて、倫理観念の著しい低下が鮮明な形で現れている。
以上のとおり、本件一連の犯行が美術品の鑑賞対象の獲得を目的とした、いわゆるマニア的なものであることは明らかであるが、前記のとおり、発覚した場合が殆ど考慮されずに敢行されている点、また陶器については文字どおり手あたり次第に盗みがなされており、盗取の動機等が了解可能域から次第に離れようとしていること、本件犯行の発生頻度が前記のとおり一定の法則性を有している点を考えあわせると、被告人の精神状態は前記躁うつ病の影響を受けた異常かつ病的なものであつたと認めざるをえないのである。
三本件犯行当時の被告人の精神状態の検討
被告人は昭和三九年に前記のとおり三重医大の精神科で躁うつ病のうつ状態であることが診断された。それ以後東京虎の門病院の栗原医師、住友病院の市丸医師、国立舞鶴病院の大谷医師、国立別府病院の広橋省三医師によつて右精神障害の存在が確認されている。発病後の経過は明瞭を欠く点もあるが、うつ状態を基調としてこれにやや短期の躁状態が入れ替る症状を呈するようである。その移行期には一般的に躁うつ混合状態が存在するのであるが、被告人においてはその周期はかなり不規則である。なお右の周期は、一般的には患者の置かれた環境、人間関係等の外部的諸条件に影響される点が多いとされている。前掲各証拠によると、被告人は、前記のとおり三重医大でうつ状態にある旨の診断を受けた際、抗うつ剤アナフラニールの投与を受けてこれの効果を過信するようになり、以後、昭和四一年ころの一時期その使用を中止したのみで、今日までその使用を続けてきたのである。躁状態下でも抗うつ剤が使用されたわけで、これが躁、うつの交替に影響を及ぼしている可能性は否定できない。
被告人は、大阪本社に復帰した後、一時高揚した気分が再び沈滞するのを感じ、気が滅入つて毎日が苦通となつた。加えて精神障害に伴う勤務成績の低下が将来への漠然とした不安感を招き、さらに現実的にも後輩に追い抜かれるなど、予期していたとはいいながら、給与生活者として身の置き所のないいらだたしさにさいなまれていつたのである。被告人は本件窃盗が発覚して前記のとおり会社を懲戒解雇されたが、後日被告人は、解雇されてむしろ喜びを感じたと述べている。このことは、当時被告人が出口のない迷路の中にあつて、心理的な代償物を模索していたことを推察せしめるに十分である。そして本件では美術品が右の代償物であつたものと考えて差支えないと思われる。当時被告人は美術に造詣の深い叔父の影響で美術品に関心を持ち始めていたので、結局これによるすりかえの満足感に奔つたと解されよう。もつとも被告人は、前記ブルガリヤ画家の作品購入までは美術品への関心はなかつたから右の代償行動は病的なかつ場当たり的なもので、後半には窃取そのものに興味を移した観があり、その意味的連関は了解可能域から逸脱したものとなつている。
この点に関し、秋元鑑定人は、本件一連の犯行当時、被告人は躁状態の基本症状である意欲昂進、脱制止、楽天的判断にうつ症状の基本症状である抑うつ気分、精神的視野の狭窄などが混交した躁うつ混合状態にあり、これが被告人の収集マニアの発現の原動力を形成したとする(マニアの語は躁病を意味しており、収集に限らず、マニア的なものが躁うつ病に関連を有することは比較的早くから気付かれていた)。
清田鑑定人の、この点に関する説明はつぎのとおりである。すなわち、被告人の第一回犯行当時は躁から「うつ」への転換期で、気分と行動は躁的徴候を示し、発想ないし思考は抑制されていた。第二回の犯行およびその後はうつ徴候が優勢で、悲哀感が少ないが空虚感が強く、発現ないし思考は抑制されていたが、行動面で躁的徴候を示し、心理的条件によつて影響されやすい状態にあつた。しかして躁うつ病の定型的症状は生命的感情の原発性の発揚または抑うつを基調とし、思考および行動の促進または抑制を伴つている。定型的な躁期には気分H、発想T、精神運動Mの三要素はH↑T↑M↑となり、いずれも促進(↑)され、定型的なうつ期にはH↓T↓M↓となり、いずれも抑制される。しかし右の三要素の組み合せが若干混合した状態が存在し、抑うつが優勢なものとして1H↓T↓M↑(興奮性抑うつ)、2H↓T↑M↓(観念奔逸を伴う抑うつ)、3H↑T↓M↓(躁性昏迷)、躁が優勢なものとして4H↓T↑M↑(観念性奔逸を伴う興奮性抑うつ)、5H↑T↓M↑(非生産性躁)、6H↑T↑M↓(制止性躁)の六種がありうるが、その前後の精神状態の推移からする、被告人の精神状態は
a H↓T↓M↓(うつ状態、昭和四〇年四月中旬)
b H↓T↓M↑(興奮性抑うつ、本の万引のころ)
c H↑T↑M↑(躁状態、土地、絵画購入のころ)
d H↑T↓M↑(非生産躁、初回犯行時)
e H↓T↓M↑(興奮性抑うつ、第二回から最終回までの犯行)
と変遷した。aの時点では極端なうつ状態であつたものが、bでは精神運動が上昇に転じ、cで躁状態になつた後、dで発想が下降に転じ非生産性躁が現われて初回の犯行となりついでeの感情、発想とも下降する興奮性抑うつが現れて第二回から最終回までの犯行となつたのである。しかして本件犯行当時の共通症状として、発想の抑制(T↓)と精神運動の促進(M↑)があるが、これが美術品収集としては発想内容が貧弱でかつ了解困難な異常収集行動が起こつた原因である。
以上が、被告人の本件犯行時における精神状態に対する清田鑑定人の鑑定意見であるが、さらに同鑑定人は、本件犯行が濫買、非行等と関連を持つ原発性の行動異常であつて、職場での欲求不満の「代償行為」というより、もつと根深い身体的基盤に基づく生命的感情の内因性の異常が、心理的環境条件を素材として症状を形成しているとの見解を述べ、内外の症例の研究から、躁うつ病のうつ状態が一般的に「万引」に親和性を有する点を指摘している。
四被告人の現在症
第二回目の鑑定を担当した清田鑑定人の鑑定意見によると、被告人の現病名も躁うつ病で、「うつ状態」を基調とし、躁状態の一過性出現を含む周期性が認められたが、一貫してその程度は軽く、状態像は躁状態においても笑顔が少なく、うつ状態においても躁的徴候と混合する等、定型的でない。快、不快の気分変動が目立ち、軽うつ状態においても自責的観念が薄く、恥と罪の意識に欠ける点が指摘される。現在の精神障害の程度は低いが、周期性を有する本症の特質から予後の予測は困難であり、加えて被告人は、長期にわたる抗うつ剤の使用経過からみて、慢性化の傾向があり、加齢現象も加わつて後記人格水準の低下が起こつているものと考えられる。
五本件犯行における被告人の刑事責任能力
被告人が昭和三九年に躁うつ病罹患を発見され、この精神障害は本件犯行時も含めて今日まで続いていること、右の精神障害が本件犯行に深くかかわつていることは、右にみたとおりである。そこで、被告人の右精神障害が、法律上の責任能力にどのような影響を及ぼすかについて検討することとする。まず秋元、清田両鑑定人とも、精神医として結論的には被告人の刑事責任追求に否定的意見で一致しているのである。秋元鑑定人はその理由として、被告人が本件犯行当時、人格異質的(平素の人柄とは無縁という意味)な精神障害の状態にあり本件犯行はこの状態と不可分な関係にあつたことを挙げるが、その趣旨は、該疾病により人格構造が影響を受け、意志の自由が著しく障害された状態にあつて是非善悪を弁別する能力(弁識能力)が欠除したか、あるいは欠除しないまでもこの弁別に従つて行為する能力(制御能力)が失われたとするものである。清田鑑定人は秋元鑑定人と同一結論に立ちつつ、その理由づけとして前記人格水準の低下を挙げる。被告人は、本件犯行についての恥と罪の意識に欠けており、昭和三九年に初発した躁うつ病が次第に増悪して昭和四二年ころから慢性化し、昭和四九年には本件犯行に前駆して無銭飲食、万引等の破廉恥な非行が出現した。これらは人格水準の低下の兆候であり、そのまま本件犯行に発展したというのである。ここで人格水準の低下とは社会生活に必要な倫理観念ないしこれを支える高等感情の減弱を意味し、これにより被告人が前記是非の弁識能力、制御能力を喪失したとする趣旨であると思われる。両鑑定人の意見は、表現の違いこそあるものの、大体において一致しているというべきであろう。
しかして被告人が、前記のとおり旧制大分中学から旧制第五高等学校、東京大学経済学部を卒業し、大企業であるN板硝子株式会社に入社して幹部社員のコースを順調に歩んでいたものであること、昭和三九年に躁うつ病罹患の事実が発見された後、抗うつ剤の効果を過信して自己の判断で服用を続け、これが誤つた用法となつて病像を歪ませる結果となつたこと、度重なる転勤で、診療を受けた医師が複数人となり、その間に治療方針の統一を欠いて予後に悪い影響を及ぼしたものと考えられること、昭和四九年二月大阪本社に復帰するや、一たん発揚状態となり、濫買傾向を示しながら、同年三月末ころには一転してうつ状態を基調とする貧困妄想に襲われ無銭飲食をしたほか、書物を万引して警備員に発見され、説諭されていること、ところが同年六月には一転して気分が高揚し、会社から巨額の融資を受けて土地を買つたりして気分が極めて不安定であること、前記万引を発見されて日も浅いのに、前記第一回の犯行を敢行し、しかも堂堂と衆人環視の中で実行していること、自己が幹部社員として勤務し恩義がある筈の会祉から、六回にわたり美術品を窃取し、その一部は近所の画廊で売却仲介の依頼をする等犯行が発覚して自己の名誉が失墜するおそれがあることなど、ほとんど意に介していないこと、前記浮世絵を窃取した後、窃取を控えていたが、約五〇日後には堪り兼ねたように美術品の窃取を再開していること、前記のとおり本件窃取の頻度に病的と思われる規則性があること等を考えあわせると、本件一連の窃取行為が、追体験=了解の困難な異常な犯行であることは明らかであろう。されば被告人は、本件犯行当時、昭和三九年より約一〇年間の長期にわたつて罹患し、かつ度重なる転勤のため必ずしも適切な診療を受けえなかつた躁うつ病の影響により、前記人格の異質化ないし人格水準の低下を来たし、これに前記躁うつ混合状態の増悪症状が重なつて、意思の自由を著しく障害された状態、換言すれば、是非善悪を弁別し、かつこれに従つて行為する能力を著しく阻害された心神喪失の状態にあつたものと認めるのが相当である。なお被告人は、捜査官や当公判廷において、美術品を窃取する等の行為が許されないことはわかつており、窃取の際は胸がドキドキしたと述べ、一見制御能力のみが喪失していたかの如き供述をするのであるが、人格が異質化し、あるいは人格水準が低下すると、弁識能力と制御能力は同時に低下すると考えられるから、被告人においては制御能力のみの喪失はありえないと解すべきである。被告人は意識が溷濁していたわけではないので、心臓の鼓動が高まるのはむしろ当然であろう。
なお検察官は、被告人が、犯行の前下見をしたり、変装のつもりで眼鏡をかけ、あるいは監視の手薄な時刻、場所を狙うなど逮捕されることを恐れていたことが証拠上認められること、被告人の診療にあたつた住友病院市丸精一医師、国立別府病院今橋省三医師がともに被告人の精神障害の程度は軽いと証言していること、を理由に、被告人は完全な責任能力者ではないにしても、少くとも限定責任能力はこれを有していた旨主張する。しかしながら、本件犯行の際の被告人の精神状態は前に述べたとおりであり、また市丸、今橋両医師は、いずれも被告人を外来患者として診療したもので、鑑定目的で観察したわけではないから、秋元、清田両鑑定人と見解を異にすることはそれ程奇異な事柄とはいえないであろう。
以上のとおり、別紙一覧表記載の窃取行為は被告人が判示心神喪失中になしたもので、責任無能力者の行為というべく、犯罪を構成するものではないから、刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。
(平井和通)
別紙